我が家にとってのありがたいお宝発見です.クリスマスパーティ準備を前にして少ーーーしパワーダウン気味.これは「本間さんに行こう」で...
“あーーー,頭痛直りました.有り難うございます.”
“首の後ろのへこんだところ,疲れたらここ押してみて,大分和らぐから”
と,施術が終わった後,いつものように玄関で立ち話をしておりましたら,本間治療院のご主人から
“これ見て”
と指し示されたのが【相川市街略図】です.
その市街図のど真ん中に【和洋御料理 楚ば うどん 阿づ滿】の文字,どうやら大正14年のものらしいのです.
大正14年といえば,母から聞いた話ですが,伯父(母の兄つまり祖父にとっては初めての息子)が誕生した年であります.
ちょうどこの年に祖父は,東京吾妻橋から佐渡鉱山へ赴任して来たある男性を追いかけこの地で料理屋あづまを始めた女傑より暖簾を譲り受けたそうです.
祖父はきっとこの年が自分にとっての【料理屋吾妻】の創業だと心し,張り切っていちばん良いところへ広告を載せたのでしょう.
それから86年.
暖簾を引き継いだ私もその思いを絶やさぬように,心して商売に勤しもうと誓ったのであります.
マッサージは身体に効いたけど,この図は心に効きました.ご先祖様ってありがたい…
そして何よりも大正14年の吾妻の広告に巡り合わせて下さった本間さんご夫婦に感謝です.
【参考】2005年7月20日のブログ
「吾妻」の名の由来
佐渡長生館・本間マッサージ治療院エントランス展示の「相川市街略図 名所及び各営業者案内」の全体.銭湯も,医院や弁護士事務所も複数あります.「佐渡鉱山人夫紹介業」などというのもあります.佐渡鉱山華やかなりし当時(徳川天領時代)は「江戸を見たくば相川を見よ」「相川は江戸の隣町」
という言い方があったそう.江戸の人口が100万人の時代に,佐渡になんとその1割,10万人が住み,さらにその7割がここ相川に集中していたと言われています.大正14年のこのときでも,確かに都会です.
略図中央下に当館創業時(大正十四年)の広告.「和洋御料理 楚ば うどん 阿づ滿」とあります.
略図左下には「大正十四年九月廿九日印刷 同年十月十日発行 著作兼発行人 新潟県柏崎町田町 橋爪三郎治 印刷人 新潟県柏崎町本町五丁目 小竹久蔵 印刷所 同県同町 小竹夫婦堂」と見えます.柏崎と佐渡とは経済的にも深い繋がりがあったことが推察されます.