佐渡のイメージの一つに「遠流[onru]の島」というのがあろうかと思います.
首魁[shukai]である父親の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府顛覆の企て(=承久の変)を図った順徳天皇を始め,法然・浄土教との間の言論&武力闘争に敗れた日蓮上人,能の集大成者ながら室町将軍・足利義教の故なき怒りを買った世阿弥など,当時の都のトップ・クラスの知識人が流され,それと共に高度な芸能文化や様々な情報がもたらされたことは間違いありません(政治犯・思想犯以外が流されたのは江戸期以降です).越後・本土側よりも情報がコアでダイレクト,また1601年の金鉱脈発見以降は,その情報集積性に益々拍車がかかり,まぁ,今で言うところの「国際インフォメイション・センター」状態と言いましょうか,例えば鎖国の時代も実に様々な国際情勢が佐渡に伝わってきていたと言います.
おそらく,そういう都(=京や江戸)の文化や世界の情報が直に入ってくるという風土が影響したのでしょう,佐渡は多くの偉人を輩出してきました.
日本初の本格的世界地図「新訂坤輿略全図[shintei_kon’yoryaku_zenzu]」を出版した地理学者・柴田収蔵,司馬遼太郎著「胡蝶の夢」のモデルで日本初のドイツ語辞典を編纂した医学者にして語学の天才・司馬凌海,「三井の大番頭」と言われ三井物産や日本経済新聞社を創業した益田孝(/益田鈍翁[masuda_don’ou]),浩瀚[koukan]「日本改造法案大綱」を著し陸軍青年将校たちに強い影響を与えた2・26事件の思想的バックボウン・北一輝,ダグラス・マッカーサーに「アイ・シャル・リターン」と言わしめたマニラ陥落の立役者・本間正晴,プロレタリアート文学の指導者で日本ペン・クラブの再建に尽力した青野季吉[aono_suekichi],米国留学を経て「めりけん・じゃっぷ」シリーズや「丹下左膳」などを書き35歳で急逝した林不忘(/谷譲次),「嗚呼我が戦友」/「哀愁列車」の歌手/作曲家・近衛八郎(/鎌多俊与),国学の最高権威で昭和天皇に国史を進講した荻野由之,憲法学者で女性初の国連日本副代表・久保田きぬ子,日本画の巨匠・土田麦僊とその弟で思想家の土田杏村,映画「きけわだつみの声」やテレビ・ドラマ「白い巨塔(佐藤慶版)」の監督・関川秀雄,テレビドラマ「前略おふくろ様」や「北の国から」の原作者/脚本家・倉本聡,遺伝子工学の第一人者で「ノーベル賞にいちばん近い男」として名を馳せる東京大学教養学部長・浅島誠,上野駅のリニューアルをプロデュースした鍛金 [tankin]作家で東京藝術大学次期学長の宮田亮平[miyata_ryouhei],劇団東京ヴォードヴィルショウの創立メンバーで俳優の佐渡稔 [sawatari_minoru]など枚挙に遑がありません.
因みに,踊るコンダクター・佐渡裕[sado_yutaka]は京都出身です.そういえば祖父が佐渡出身の岩﨑宏美は益田鈍翁の子孫と結婚してましたし,野呂一生と共に「カシオペア」を結成し,現在はグレッグ・ハウやデニス・チェインバーズとのユニットで知られるベーシスト・櫻井哲夫の御母堂もアイランダーです.
で,その櫻井哲夫さん,「佐渡つながり」ということで夏の終わりにご来館いただきました.
昔話になりますが,私のカシオペア「追っかけ」時代で特に印象に残っているのは,1980年3月に渋谷の「屋根裏」で見た,サンダー・ライヴ後の初ライヴ,翌年1981年10月の築地・中央会館での「ミント・ジャムズ」音録りコンサート,さらにその翌年1982年11月の一橋祭[ikkyousai]・兼松講堂での「クロス・ポイント」コンサートです.
ドラムズの神保彰が加入し,芝・ABCホールで収録した「サンダー・ライヴ」は各所で高い評価を受けました.当時,季刊(=年4回発売)だったアドリブ誌の連載「ブラインドフォウルド・テスト」で,目隠し状態のハービー・メイスンが「これは誰?日本人?ウソでしょ?!超グルーヴィー!!!」といった感想を述べていたのを覚えています.これが後の「Eyes Of The Mind」(ボブ・ジェイムズと彼がプロデュースした1980年暮れの米国録音アルバム:発売は1981年春)につながっていきます.その「サンダー・ライヴ」の収録が1980年2月,発売が3月,私が見た「屋根裏」でのライヴはその発売直後で,「至近距離のカシオペア」もそれはまた格別でした.因みにこの「屋根裏」からは,サザン・オール・スターズの「ザ・ベスト・テン」生中継もありました.(いま「屋根裏」はどうなっているんでしょう? ググると,渋谷にあることはあるようなのですが,住所は「地下一階」となっています.25年前の当時は「二階」に上がっていったような気がするのですが,これがあの「屋根裏」かどうかご存じの方がおられたら教えてください.)
「ミント・ジャムズ」は,ライヴ・バンドとしてのカシオペアの本領を遺憾なく発揮した名盤として,大袈裟に言うと,歴史にその名を刻んだアルバムです.収録は築地の中央会館で二日間に渡って行われ,観客は「公募」されました.「あのカシオペアが無料で見られる」という不埒な輩はむしろ少数派で,「歴史の生き証人になりたい」と,ファンはこぞって応募したものでした.出来上がったアルバムはとてもライヴ盤とは思えない,と言いますか,ライヴ固有の「バラツキ感」や「ヨタリ感」が全く無く,スタジオ録音と言っても分からないぐらいの緻密さでありつつの,絶妙なバランスで「ドライヴ感」と「グルーヴ感」が混在する,まさに「新感覚サウンド」なのでありました.「俺,これ,見に行ったんだ」と自慢トークが出来たりして,横浜方面ドライヴの時たいへんお世話になったりした一枚でした.
兼松講堂ライヴは今や伝説です.二階部分の床が抜け落ちるのではないかと心配になるほど古めかしくも趣きのある講堂は,あの明治神宮を設計した伊東忠太が大正10年に建てたもので,コンサート前に「この建物は非常に古く,床が抜けると大変ですので,足踏みは決してしないで下さい」という,二階の床直下にいる一階の観客の不安感を思いっきし煽る「足踏み禁止令」のアナウンスで会場がどよめいたのを覚えています.こんな異様な雰囲気の中,コンサートは「朝焼け」で幕を開けて早くも総立ちになり,ステージに向かって真っ先にダッシュしたのは,二階の床直下にいる一階の観客でした(やっぱり,そこにいるのが怖かったんですね).渡辺香津美バンドがカシオペアの「前座」ということで,両者の「格付け」が逆転したことでも,ある意味,象徴的な公演でした.
その後,忙しさにかまけて,カシオペア,というよりコンサートや音楽そのものから遠ざかってしまった私ですが,学生時分のことを思い出して胸がキューンとしてしまいました.さらに懐かしさにひたろうとカシオペアの初期13枚を「大人買い」してシコシコとエンコし,ギターの弦も6本イッキ替えしました(切れた弦だけ張り替えて終わりなのが一般ピーポゥ).勢いで,知り合いからジャズ・ギターの個人レッスンを受けることにもなりました.おじさん,かなり血迷ってます.
話はどこから飛んでしまったのでしょうか,そう,佐渡偉人伝からでした.
人間国宝も新潟県からは4人でています.が,なんと,その内3人(佐々木象堂・三浦小平二・伊藤赤水)が佐渡出身,「シャカ・ラビッツ」のベーシスト・ Kingも佐渡出身,ということで佐渡ってエラい人,いっぱい出てますね.そして私は同じく「佐渡つながり」の櫻井哲夫さんから音楽熱に再点火させられた夏の終わりのハーモニーでした.